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とめどなく自分史 第2弾

とめどなく自分史②

 

これもTwitterモーメントより転記。
一個目を書いてわりとすぐ書いたものです。

あの頃、本当に感情が次々とわいてきて
整理せずにいられなかった。
いつかこうやって形にしたかったんだろうな。
この後半生を遡り、印象深かった場面をどんどん書いて文章にしていきたいと思います。
自分と向き合う最高の作業だと今思えるのです。
ウンザリするほどの長文ですが、
お時間あるときに読んで貰えたら嬉しいです。

ここから↓

自分の歴史を多くの人に読んでもらうことが私にとっての再スタートになるような気がします。
身の上のことを知ってもらいたいのは、受け入れて欲しい、理解してほしいという思いの表れなのだと思います。

ー母の生前感情の行き違いで苦しんでいた時の想いですー

私は、両親を毒親と思えない感が拭えません。
もともとが私お人好しなのと、困った人には手を差し伸べたくなるところ、
散々グレて傷付けてきたから、もう親に冷たく出来ないこと
(産まなきゃよかったと当時言われたことがありました)
で葛藤しています。

嫁いで離れて、だいぶ精神的に自立も出来、
自分のものさしや世界も出来てきましたが、根本はやはり「私はダメ」のまま。
親と物理的に離れて楽になったという感覚はないままです。
未だに「自己不在」なんです。すっぽりと。
いつから脱け殻で生きてきたんだろう。
とやはり過去に頭が行ってしまいがちで、ふわふわ流されたまま。
自分の人生を自分が生きているという実感がなく手応えのないまま生きてます。ACの傷は大人になってもずーっと残る。
なかなか苦しいです。

父は自分の機嫌で頭ごなしに怒鳴ったり、子供の前でも盛大に母と喧嘩し、

そういう時は母とも子供とも二週間は口をきかず、
家の中がどよーんとしていました
(父も生育歴が良くなく、不安定さを抱えていたように思います)
そういう時、母は一生懸命ご機嫌取りをする。
私はいつも二人の顔色を伺っていました。
保育園の時、登園するときに母に
「蒸発しないでね。ちゃんと家にいてね」
と何度も言ったことを覚えています。
三才か四才の時。どこでそんな言葉を覚えたのか。
消えてしまうことを指す言葉だったことは理解していました。
それだけ不安だったのだと思います。

引きこもり質のヘタレなので、高1の夏休みに半端にグレて自分の青春と進路を台無しにしました。
これは一生後悔です。姉にかなわなくても自分は自分で頑張れば良かった。
あの頃から自分がなかったから、流されたんだろうと。

集団生活や同世代の人との交流が苦手でした。
交際相手は、ほぼ一回り年上の人ばかり。
大人の中にいることが心地よかったのは、寂しかったからだと思います。
チャラい系の人が細かいことを気にせず優しくしてくれたから、
その中にいたため、染まりまくり、だいぶ破天荒なことをしてきました。

この時期。今思うと、第1次躁状態。

自分を客観視出来ていなかったです。
同世代の中で揉まれなかったから、社会性も育たなかった。
今も人間関係が苦手なままです。人が怖いです。
もしかしたら高校に入学した時に燃え尽きていたのかもしれません。
昔から勉強だけはわりと出来る方だったので、進学校に入り、
グレるまでは成績も上位で目指す夢も入りたい大学もあったのに、
進学校の中でたった一人グレてました。
そう、あの時私は逃げたんです。

中学生時代、脳梗塞を患い、
あまり中学校に行けなかったけれど本当に頑張って入った高校だったのに。。。

卒業後、就職が決まっていたけれど当時仕事中の事故で
頚椎骨折して一時期寝たきりだった父の介護のため
(母は生活のため仕事を離れられず、仕事優先だったので。それも今思うどうかと思うけど)
就職を辞退して(実はホッとしていました。
就職して集団の中で地味に働くのに抵抗があったのだと思います)下の世話まですべてを介護しました。
そんな中で、父と口をきけるようになり、
勉強をして青春時代を取り返したいと思い
翌年短大に進学しましたが、
特にこれと言ってこれを学びたいといった目的もなく、誰でも入れるような短大。
家から通える距離だったけれど、家賃を含む生活費をバイトで稼ぎ、
無理矢理一人暮らしをしました。

チャラチャラと飲み歩き、昼夜バイトをしながら学校ではそこそこ優秀な成績でした。
朝 学校
昼からバイト
夜は別のバイト
帰ってから勉強
2時間寝て学校

今思うと第2次躁状態。恐るべき行動力・・・。

たくさん取った資格はどれもこれも社会では全く役に立たないものでした。
社会に出て発病した時実家に戻りたいとお願いしたら、
「逃げるように家を出て行った癖に、何だ今更。
同居は断る!付き添いもいい子と思われたかったポーズで、嘘だったんだな。
何してもいいけどな、犯罪者にだけはなるなよ!
お姉ちゃんの経歴に傷をつけるような真似はするな!」と怒鳴られました。
立ち直ったように短大に進学したのに
私が社会から逃げてるように見えて怒っているようでした。
そのまま実家から母に箒の柄で叩き出され、行き場もなくその足でかかっていた心療内科に行き、心身限界で9ヶ月入院。
この時は病院に逃げ込んだ甘ったれと責められました。
こんな風に学生生活が不完全燃焼で終わったのは自分が甘かったのと、
劣等感を抱かざるを得なかった環境的な要因もあったのかもしれない。
自分だけのせいじゃないと思えるようになればいいんだけど…。

実は私、中1で脳梗塞を患ったので脳の一部がちょこっと死んでいます。
ストレスに弱い原因の一つで、あの頃から自分を持てなかったし、
自己主張が出来なかったり、忘れっぽいなど日常に不便が出ていた気がします。
幸い身体麻痺は残らなかったですが、
精神科の主治医の見立てでは、双極性障害もそこから来ているようです。
心が壊れていると私は思っていて、家庭環境も要因として重なっているのかなと思います。

その後バイトしたり、ストレスで潰れて何度も入院したり

働きたくないんだろう!と親に非難されたけど、本当は頑張って働いてふたばも頑張ってるねと認めてほしかったです。働くのは嫌じゃないから。
でも、鬱状態になると使い物にならなくなり、
職場にも親にも辞めたいと言い出せず無理をすると入院になってしまう。
親との関係が悪化し、ど鬱状態でどうにもならなかった時、
もうお前は親から離れろと当時の交際相手がアパートを借りてくれて、
流れで入籍しました。

死にたい死にたいと呟く新婚時代。

ある日パコーンと弾けて、私は神!みたいな万能感で大騒ぎして周りを振り回し、
双極性障害に病名が変わり、精神科に4ヶ月入院しました。
安定剤を打たれて眠っている間に病棟に運ばれたいわゆる医療保護入院でした。 捕獲された感じw

母は、恥ずかしいと泣いたそうです。こんな子産まなければ良かったと。
退院後の相談で主治医に呼ばれるまで、病院に来てもくれなかったです。
でもね。そこまで言わせてしまったのは私。申し訳なかったと思っています。
ある程度の事情を知りながら嫁に貰ってくれて、躁状態の時はイライラするし、鬱状態になると寝たきりになる時もあるのに、
18年も見放さないでいてくれる主人には喧嘩もするけど、感謝しています。
物好きだなぁと思います(笑)
表ではよく喋り、明るく見えるキャラだけど、
本当は引きこもり体質で根暗なので、無理がかかるようで心身の調子を崩しがちです。

そんな私は、意外と優しい面もあるようです。
悩んでいたり痛みを持つ人に頼られると自分を犠牲にしてもどうにか出来ることをしたくなります。
寺子屋のように頼られる事が多く、どうしても放っておけなくて、
それに応えたいと思う。
でもそれは最近気づいたのですが、共依存傾向なのかも。
私がどうにかしなければと親身になるのはいいけど、それはその人の問題を奪っていることになってしまう。
自分の存在意義をそうすることで得たかったのかもしれない。
だけど、自分のことになるとからきしダメなので、
まずは自分だよね?と最近思う。

境界線をしっかり意識しながら人の支えにになることが私にとって自分を確立する方法なのかもしれないと思い始めたMY Revolution。
自分ともっと向きあいたいです。

たったこれっぽっちの生き様だけど、
もっと細かく肉付けしたら本が書けそうじゃない?(笑)

悲観的な話をつらつら書いたけれど決してお涙頂戴をしたいわけじゃないんです。
多くの人に読んでもらうことで自分をもう一度確認したかったのだと思います。

読んでくれてありがとうございます。